秋田の鹿島様のバリエーションである福島県の人形道祖神は久比毘古命(くえびこ)とも呼ばれます。「久延毘古」とは「山田のそほど」つまりかかしのことです。田んぼの真ん中で野鳥を追い払う役割のかかしは、田の神、農業の神、船戸神(ふなとのかみ、岐神、道祖神)であり、また人々のためにいけにえとされたものの神格化です。
実は、日本書紀での葦原中国平定の段では、経津主神(ふつぬしのかみ)と武甕槌命(たけみかづちのみこと)はまつろわぬ鬼神等をことごとく平定したのだが、香取の地に住む星の神である香香背男(かがせお)だけは服従しなかった、とあります。この香香背男(かがせお)とは、ずばり案山子(かかし)のことです。また、香香背男の別名は天津甕星(あまつみかほし)。かかしも鹿島様も同じ野ざらしのワラ人形、同じものなのではないでしょうか。
鹿島神(タケミカヅチ)が武神としての性格を与えられたのは、朝廷の藤原氏の氏神として登場する古事記の記述でのことで、本来は武神でも何でもない、関東から東北にかけての素朴な農耕・海洋神だったのではないでしょうか。というよりも、もっとはっきり言えば、葦原中国平定の段でフツヌシ(ヌシとつくのは物部氏の神で、物部氏は古代の軍事を司る氏族でしたから、まちがいなくフツヌシは軍神です)とともに悪神をやっつけた、と書かれるタケミカヅチは、本当は平定される悪神であり、香香背男=天津甕星こそタケミカヅチだったのではないでしょうか。そういう思いで見てみると、「タケミカヅチ」という名も、まったく違って聞こえてきます。「ミカヅチ」は雷ではなく、「甕」「ツ(の)」「チ(命)」という、極めて土着的で女性的なイメージであることがわかるし、「タケ」は実は古事記でやっつけたとされる「タケミナカタ」とも本当は同じ神様なのだ、というしるし付けにすぎない、と解釈できます。
鹿島神宮は、実は本殿が拝殿に正対せず、祟り神を封印した神社なのではという説があります。また、香取神宮も、いくつもの祟り神を祭った形式の痕跡を見ることが出来ます。
つまり、鹿島神宮は香香背男=天津甕星を封印したもの。かたや並び立つ香取神宮は、本来朝廷で「もののふ」として権勢を振るっていた物部の神を封印したもの。鹿島には東日本で本来あがめられていた豪族の氏神を、香取には物部氏の氏神を、それらを奪い取った藤原氏が呪いを封殺するために祭り上げたのが、東国の両神宮だったのではないでしょうか。
とりわけ鹿島は、本来敵方であった神をそれを討ち取る側に書き換えてしまったわけで呪いの色は強く、したがってまるで本来の自分のものであった大地を逆らわぬようにらみを利かせるように、北のほうに祭殿を開いている・・のかもしれません。
秋田の鹿角市には、日本最大の環状列石(ストーンサークル)大湯(おおゆ)環状列石が存在します。成立した時代はまるで違うものの、まるで巨大な鹿島様は、それと呼応するかのよう。古代の東北を統べていた神が、人々の直感を通して人形道祖神として姿をあらわしたかのようにも思えます。最近では七月に衣替えをする鹿島様が多いとか。圧巻だったり、ちょっ不気味だったり、かと思うと笑ってしまうようなユニークなものなど、さまざまな姿の「鹿島様」。是非実物を見にいきませんか。
参照・秋田人形道祖神~ 秋田県の民俗学の原点を求めて ~