別名「寒咲きカレンデュラ」とも言われるホンキンセンカ。平安時代の「倭名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)」(913年)に「こむせんか」の名で登場しますから、少なくともその頃には日本に渡来していたと思われます。現在一般的なトウキンセンカ(Calendula officinalis)よりも花は小さく、黄色い野菊のような地味な印象を与えます。ただし、「金盞」=金の盃のイメージにはむしろこちらのほうがぴったり。トウキンセンカよりも背はずっと低くやや横に広がってよく枝分かれし、茎の先に直径2~3cmの鮮やかな黄色の花を上向きに咲かせます。中央部の筒状花の集まりは雌雄両性で、その周囲に橙黄色の舌状花弁が、やや上にもち上がったかたちで開き、まさに盃のかたちになるため、これを金盞にたとえられました。冬日が射すと花が開き、夕方には閉じます。
原産地は地中海沿岸で、中国には紀元前よりはいり、生薬として栽培されていました。金盞花という名のほか、金仙花、金盞兒花、長春花、長春菊などの名でも呼ばれます。
日本でもこのキンセンカは広く栽培されていたようで、明治期の博物学者・民俗学者の南方熊楠が子どもの頃に飽きずに愛読したという中村惕斎の「訓蒙圖彙(きんもうずい)」(1666年)にも図版つきで紹介され、日本人にはなじみのある草花でした。このほか貝原益軒「花譜」(1694年)にもホンキンセンカの記載があり、江戸の初期から中期には金盞花=ホンキンセンカであることがわかります。
一方で幕末、シーボルトが本国に持ち帰った標本には「金盞草」とラベリングされたものがあり、こちらはトウキンセンカと同定されているため、江戸末期にはトウキンセンカの方が金盞花として一般的になっていたように推測されます。こうした流行り廃りが、「金盞香」の花についての解釈に影響を及ぼしたのでしょう。
今より寒さの厳しかった江戸時代、そして幕府の緊縮政策でわび住まいを余儀なくされていた都の公家たちにとっては、江戸時代はいわば冬の時代。土御門泰邦は、冬の寒さに負けずに凛と咲く小さな花に、落ちぶれても我らは黄金の盃にも似た貴種なり、という意地を託したのではないでしょうか。
ホンキンセンカは、現在では栽培する人もあまりありませんが、日本各地で自生しています。小春日和の散歩がてら、さがしてみてはいかがでしょう。
和魂和才・世界を超えた江戸の偉人たち 童門冬二 PHP出版
参考サイト・写真提供 津軽海峡のデジカメ紀行/復刻版